眼前に富士山頂をのぞむ、新緑の樹木が生い茂る森の中に立つ無数の石碑。富士山は観光の山であるとともに信仰の山でもあるのだ。古代から続く伝統的な宗教から新興宗教まで多くの宗教団体が富士山周辺で活動をしている。富士山から発せられる宗教パワーはどのようなものなのだろう?富士山の宗教地帯を渉猟してレポートする。
無数の碑塔が建っているのは静岡県富士宮市人穴の人穴富士講遺跡だ。この碑塔群から少し離れた場所に富士山の溶岩でできた長さ約80メートルの人穴洞穴がある。人穴洞穴は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に登場し、将軍の命により洞穴内を探検した武士が霊的な体験をした場所として記録されている。また、吾妻鏡は人穴洞穴について「浅間大菩薩のご在所」と記していることから、人穴洞穴は当時から富士信仰と関わりのあった場所だったと考えられている。
吾妻鏡の時代から少し下って16世紀半ばから17世紀半ば、戦国時代から安土桃山時代を経て江戸時代前期にいたる乱世を生きた長谷川角行(かくぎょう)という人がいる。長崎の生まれで、角行というのは行名で修行者だった。角行は、人穴洞穴に1000日間こもるなどして修行をして様々な教えを説き、人穴洞穴で亡くなったという。角行の修行は、四寸五分の角材の上につま先立ちで立ち続けたり、穀物を食べずに富士山中腹をめぐったり、冬に裸で修行するなど苦行そのものだった。
角行と角行の弟子たちの教えは江戸時代中期から後期にかけて江戸を中心に広く庶民に受け入れられ「富士講」の爆発的なブームへとつながっていく。ゆえに角行は富士講の開祖とされている。当時は江戸八百八町に八百八講とさえ言われ、江戸のすべての町に富士講があり、定期的に富士参詣が行われていた。講(こう)とは角行やその弟子たちの教えを信奉する人たちが地域ごとにつくっていたもので、みんなでお金を積み立て、そのお金を使って選ばれた人たちが富士参詣をするシステムになっていた。人穴富士講遺跡の碑塔群は、角行やその弟子などを供養、顕彰するために18世紀末以降から各地の講が建立するようになり、人穴洞穴は霊地(西の浄土)として信仰の対象にもなっていたという。
今日、富士参詣の仕組みとしての富士講は途絶えてしまったが、その信仰は扶桑教などいくつかの宗教団体が継承していて、人穴富士講遺跡をはじめ富士山周辺に点在する信仰の地では例年、白装束をまとった富士講の信者たちによってお焚き上げなどの神事が行われている。人穴は角行を祖とする富士信仰の「メッカ」とも言え、碑塔群は江戸時代からの富士講信者たちの信仰への思いが現れたものなのだ。