日本で生きる外国人たち 自動車工場からプロバイダーそして経営者に

 20代半ばでブラジルのパラナ州ロンドリーナ市から日本にやってきて自動車工場で働き始めた宮部マルコス(Marcos Myabe)さん。工場では車のシートを作っていたというが「大変だった。すごく疲れる仕事だった」と重労働だったようだ。日本での暮らしをスタートさせた宮部さんだったが、来日して半年で自動車工場を辞めてしまったという。

ブラジルの食品がズラリと並ぶエンポーリオブラジル店内と経営者の宮部マルコスさん=静岡県磐田市

 工場の仕事を辞めて宮部さんはどうしたのか?「週末によく浜松のネットカフェに行っていたのです。社長は日本人だったのですが、仕事をさせてもらえることになりました」。1998年頃にはすでに多くのブラジル人が来日していて、浜松市内にはブラジル人のための店舗もあり、こうした環境がブラジル人の来日をさらに後押しする背景としてあった。宮部さんは自動車工場の仕事のない週末にポルトガル語で運営している浜松市内のインターネットカフェによく行っていたという。同店では在日ブラジル人向けのネットカフェの運営とプロバイダー事業をしていて、宮部さんは志願してプロバイダー事業のスタッフとして働くことにしたのだ。「高校でパソコンのシステムを勉強し、大学ではインターナショナルコマースを勉強していました。プロバイターの仕事を通して大学で勉強をする以上に多くのことが学べたし給料もよかった」と宮部さん。かくして日本で2年間働いてブラジルの大学に戻るという当初の計画は変更され、日本社会の中で生きていくことになった。

 国内のブラジル人を相手にサーバーの設定や電話サポートなどのプロバイダー業の仕事をした後、宮部さんはブラジル人が社長を務める磐田市内のソーセージメーカーでパソコンなどのシステムメンテナンスの仕事に携わるようになった。しかし、2008年のリーマン・ショックの影響を受けて同社での仕事がなくなってしまい、個人でシステムメンテナンスの仕事を始めたという。一方、ブラジル雑貨店のエンポーリオブラジルは2003年頃からすでにあり、宮部さんは客として店舗に出入りしていた。ソーセージメーカーのシステムメンテナンスの仕事がなくなり、個人で仕事を始めていた時に、顔見知りになっていたエンポーリオブラジルの前の経営者から店を譲渡したいという申し出を受けたのだという。日本経済の低迷はささやかなブラジル雑貨店にも及んでいて、前の店主は経営が大変になって宮部さんに店舗を託したようだ。

 「チャンスあるかなぁって考えましたね」と宮部さん。しかし、技術系の仕事をしてきて店舗の経験はなく不安はなかったのだろうか?「高校の時に自分でTシャツのブランドを作って売ったりしていました。ソーセージの会社でも直接の仕事ではありませんでしたが、その会社が運営していたレストランや販売店も見ていたので、なんとなくできるかなぁと思いましたね」。かくしてエンポーリオブラジルは2009年から宮部さんの店となり、その後、株式会社エンポーリオブラジルを設立し宮部さんは2人の従業員と3人のアルバイトを抱える会社代表者となった。「ブラジルにいたら店を持とうとは思わなかったですね。日本は治安がいいし病院や学校も充実しているので住みやすいです」と話す。

エンポーリオブラジルの店内にはアジア人向け商品のコーナーも

 今、目指しているのはブラジル人にとどまらずアジア人にも広く利用してもらえる店舗にしていくことだという。実際、店舗の棚にはベトナム商品のコーナーなどがすでに設けられている。こうした商品は輸入会社から仕入れていて、輸入会社からのアピールもあるようだ。昨春、改正入管法が施行されアジアからの外国人労働者の受け入れ拡大が見込まれている。「磐田市内でもベトナム、フィリピン、インドネシア人を見かけるようになった。よく自転車に乗っているね」と宮部さん。こうした新たな在留外国人をどう取り込むかが課題のようだ。「まだまだ勉強が必要」と話す宮部さん。アジアの食べ物や生活について知るため実際にベトナムなどに視察に行くことも計画しているようだ。地域のブラジル人コミュニティ、ブラジリアンタウンとともに歩んできたブラジル雑貨店のエンポーリオブラジルは、改正入管法による日本社会の変化とともに新たな店舗展開を模索しているといえる。

(三好達也)

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