3・11から12年 市井の脱原発活動家に聞いた「子供たちに命を大切にする国だと言いたいんです」

2011年3月11日に発生した東日本大震災から12年。同震災により起きた福島第一原発事故を受けて国内ではこれまで根強い脱原発活動が繰り広げられてきた。しかし、ウクライナ危機によりエネルギー資源調達の厳しさが増す中、政府は原子力発電に積極的に取り組む姿勢へと舵を切った。脱原発を訴えてきた人たちは今、何を思い、今後どのような取り組みをしようとしているのだろうか?

介護の仕事のかたわら‥静岡市の小笠原学さん

福島への支援や原子力防災活動に取り組んでいる小笠原さん=静岡県庁前

脱原発活動に取り組む小笠原学さんは静岡市在住の48歳。2児の父親でもある小笠原さんは介護の仕事のかたわら、「3.11を忘れないin静岡」の代表として、福島への野菜支援、保養事業、街頭募金などの活動に取り組んでいる。また、原発事故時に服用することで小児甲状腺がんの発症を抑える安定ヨウ素剤の自主配布会も開催するなど、原子力防災活動にも取り組んでいる。小笠原さんに話を聞いた。

――福島支援や脱原発に取り組むようになったきっかけを教えてください。

 小笠原学さん 東日本大震災の発生時、私は静岡でテレビが報じる原発事故のニュースを見て、すごいことが起きているという漠然とした思いを抱きました。それから2週間ほど経った3月末、静岡市内で福島県を視察してきた市議さんの報告会が開催され、私は知人の誘いで、この報告会に出席しました。その報告会で「福島第一原発の事故後、福島県いわき市ではガソリンや食料が不足し、市民は避難することもできず孤立状態にある」等の説明を受け、現地の惨状にとてもショックを受けました。

――当時は放射能汚染について連日、報道されていましたね。

小笠原さん このことをきっかけに、過去の原発事故についても調べてみると、チェルノブイリ原発事故では、多くの幼い子どもが小児甲状腺がんを発症するなどの被害を受けたと知りました。また、福島第一原発事故についても、福島の避難者が避難先でいじめ・差別にあったり、福島に残る親が中傷を受けたりしていると知り、更にショックを受けました。私には2人の幼い娘がおり、静岡県にも浜岡原子力発電所があることから、もし静岡県で巨大地震が発生していたら・・と考えると、他人事とは思えませんでした。子どもたちの明るい未来のために何か行動したいという思いに突き動かされたのです。

娘を抱えて挑んだ初めての地下通路での募金活動

――子どもたちへの思いがきっかけなのですね。

小笠原さん 何か行動をしたいと強く思ったものの、当時の私は市民活動もボランティア経験もなく、何から始めたらいいかわかりませんでした。チェルノブイリ原発事故における、被災者への社会的支援を規定した「チェルノブイリ法」(※1)では、避難、保養、安全な野菜の配給などが保障されたと知り、避難や保養支援は難しいけれど、福島県の被災者の方へ静岡の新鮮な有機野菜を送ることなら、今の自分にもできるかもしれないと思ったのです。そこで、野菜を送る資金を募るため、2011年5月に静岡駅の地下通路で街頭募金をすることにしました。

※1  チェルノブイリ法 被ばくから、命・健康を最大限守るために、チェルノブイリ事故5年後の1991年に旧ソ連で制定され、ソ連崩壊後にロシア・ウクライナ・ベラルーシに引き継がれた法律。

――1人で募金を呼びかけたのですか?

小笠原さん それまで募金活動ということをしたことがなく、どうしても1人でする勇気が出ませんでした。それで当時1歳の娘を抱えて駅の地下通路に立ちました。今となっては笑い話なのですが、この時は、恥ずかしさから声を発することができず、誰からの募金も得ることができませんでした(笑)。

――思いをすぐに行動に移すところがすごいですね。

小笠原さん それで結局、自分の小遣いを切り崩して静岡の野菜を購入することにしました。しかし、いざ野菜を送ろうと思っても、福島県に知り合いもなく、どこに送ったらいいかもわかりません。そこで、福島の報告会を開いた市議さんに相談したところ、いわき市の市議さんを紹介していただき、この方を通じていわき市の保育所に野菜を送ることができました。野菜を送った後、この保育所から、「ありがとうございます。福島では、新鮮な野菜を食べることができないため、とても貴重です」と感謝の言葉をいただきました。これ以外に、保育所の先生からは、「山の放射能汚染は100年にわたり、子ども達の健康不安は数十年と続きます。また、福島では事故後にうつ病が増え、離婚や自殺者も増え、子どもへの虐待が増えました」との原発事故が引き起こした現状についてお話しを伺い、「支援活動は、できるかぎり継続しなければならない。原発事故の悲劇を、娘達に負わせてはいけない」と感じ、このことがきっかけで脱原発への思いを強めました。

――福島に野菜を送ったことが活動の原点なのですね。

福島に静岡の有機野菜を送る取り組みは現在も続いている

小笠原さん 福島への野菜支援は当初、半年ほどで終える予定でしたが、その後、福島へのサポートを目的とした支援交流『虹っ子』を設立することになりました。『虹っ子』の名前の由来については、「自分たちと福島の方のお互いの思いを行き来させる静岡の想いを福島に届け、福島の声を静岡に届ける、虹の架け橋になりたい」との思いで付けました。最初は1人でのスタートでしたが、現在は様々な方から支援を受けつつ、福島県の保育所、市民団体・個人宅などへ静岡の有機野菜を送っています。

福島から地元の原発再稼働をめぐる問題へ

――脱原発の取り組みはどのようにして始めたのですか?

小笠原さん 福島に野菜を送る活動のほか、福島の親子を静岡に招待して自然体験を通して心と体をリフレッシュしてもらう保養プロジェクト「親子わくわくピクニック」など新しい活動も始まりました。そうした取り組みの一方で、福島への支援活動で知り合った、静岡県の浜岡原発の再稼働の是非を県民に問う「原発県民投票静岡」の共同代表の一人に声をかけられたことがきっかけで、2012年にスタッフの一人として、署名活動に参加しました。これが脱原発への最初の取り組みです。

――地元の原発の再稼働問題への取り組みですね。

小笠原さん この活動には、市民活動家や政治家だけでなく、一般の方も参加しました。私自身も実感することなのですが、これまでに市民活動に参加した経験のない方にとって「原発反対デモ」への参加はややハードルが高いと思います。しかし、この署名活動は「原発再稼働の是非は、みんなで考えよう」という趣旨の活動でしたので、多くの方が関わりやすくて良かったです。この署名活動では請求必要数の倍以上である18万筆以上の署名を得ることができましたが、静岡県議会で否決されてしまったため、原発県民投票は実現しませんでした。多くの民意があっても、議会で民意が反映されない議会のありかたに、疑問を感じました。

――議会が否決したのですね。

小笠原さん 原発県民投票の署名活動を通して反対派だけでなく、一般市民の方も県民投票で再稼働の是非を決めるべきだと考える方が多いことを実感し、また、多くの人と知り合ったことがその後の活動の糧になりました。しかし、2014年頃になると、原発問題への世間の関心が薄れてきたのか、学習会などを開いても、同じような顔ぶれが目立つようになってきました。私は今も街頭活動を行っています。普段それほど原発への関心が高くない人でも、語り掛けることで原発事故を思い出してもらえるかもしれません。また、共感した方が、些細なことでも行動に移せば他の人との関わりが生まれます。私は少しでも多くの人に原発の問題に関わってほしいし、人との関わりを大切にすることで命を大切にする社会作りにつながると信じています。

「福島原発の被災者救済は蔑ろにされている」

――原発に対する国の姿勢をどのように評価しますか?

小笠原さん 政府は、原発の再稼働ありきで政策を進め、都合の悪いことを隠しています。それに福島原発事故の被災者救済を十分に行っていません。私は、福島第一原発事故までは、日本は人の命と健康を守る国だと思っていましたが、国が原発利権の為にここまで実害を隠し福島原発事故の被災者救済を蔑ろにしていることに強い憤りを感じています。

――それは具体的にはどのようなことですか?

小笠原さん 例えば文部科学省は現在、子ども達への放射能教育を目的に「放射能線副読本」を作成し、全国の小中高校に配布しています。しかし、この副読本では、放射線の安全性ばかりを強調し、実害については触れていません。国際放射線防護委員会(ICRP)は、一般の方々の健康を守るための基準値である「公衆被ばく線量限量」を1m㏜/年に設定しており、この基準は日本でも適用されています。実際、福島第一原発事故直後は、福島県内がこの基準値を超えてしまったため、救済のため訪れていた静岡市消防局や日赤などが撤退を余儀なくされたと聞いています。日本政府は2011年3月11日、福島県に原子力緊急事態宣言を出し、「公衆被ばく線量限量」を未定としましたが、同年4月には同県における「公衆被ばく線量限量」を国際基準の20倍の20m㏜/年に設定し、この基準値以下の地域は避難せず、居住してもよいとしました。原発事故直後であれば、こうした対応はやむを得なかったのでしょうが、現在は福島県の放射線数値も落ち着いてきており、公衆被ばく線量限度を国際基準である1m㏜/年に戻すべきですが、政府は事故後12年を迎える現在も、この数値を20倍に維持したままです。

――現在も国際基準の20倍なのですね。

小笠原さん 「チェルノブイリ法」では、事故5年後に国際基準である1m㏜/年以上の被災者に避難や保養の権利が保障されましたが、福島の被災者にはこうした権利がありません。単純比較は出来ませんが、福島はチェルノブイリよりも、20倍人権が低いのです。福島県内の山では一般市民の立ち入りが禁止される「放射線管理区域」以上の土壌汚染が残っていますが、こうした土壌汚染に関する記載もありません。また、福島第一原発事故では、現地で適切な防護方法が周知されていなかったため、多くの子ども達(大人も含む)が被ばくし、小児甲状腺がん等が増加しています。国際的には、放射性物質に対する原子力防災として、安定ヨウ素剤と使い捨てレインコートの着用が推奨されているにもかかわらず、副読本では安定ヨウ素剤の記載が無く、長袖の服の着用を推奨しており、福島原発事故の教訓が全く活かされていないのです。

「実効性のある避難計画を立てることは不可能です」

――政府の避難計画に対しては、どのように考えますか?

出典:早川由紀夫作成「放射能汚染地図(第8版)」
URL: http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-570.html

小笠原さん 政府は原子力災害避難計画の作成が必要な地域を、原発の30km圏内としています。しかし、福島第一原発事故では大半の放射性プルーム(※2)が偏西風によって太平洋側に流れ、福島第一原発から約100km地域まで、国際基準である公衆被ばく限量1mSv/年を超える放射能汚染がありました。避難計画が30km圏内のみでは、範囲が狭すぎます。放射能濃度の上昇が広範囲に及んだことから考えて、この避難計画では不十分です。仮に静岡県御前崎市にある浜岡原発で事故が発生し、原発30km圏内に住む方が北北東40kmに位置する静岡市に避難しようとしても、少し強めで風速5m/秒ほどの偏西風と浜風が吹いていた場合、2時間ほどで静岡市にも放射能が到達します。

※2  放射性プルーム 気体状の放射性物質が煙や雲のようになって大気中を流れていく現象。

――自分たちが住む地域に当てはめると具体的に考えられますね。

小笠原さん 大地震の津波災害の中、さらに大渋滞で、数時間以内に100km以上避難する事は、時間的に不可能です。更に遠くへ避難することが必要になります。また、放射能は一般の家屋だと、呼吸する際、大気を漂う放射性物質を吸い込むことで被ばくもしてしまうため、日本国民の健康を守るのであれば、国民全員分の核シェルターが必要になります。これに加え、チェルノブイリや福島の原発事故では、放射能は3週間ほど大量放出を続け、滞留したことから、3週間ほどの水・食料が必要となります。放射能から身を守るためには、これらが必要になりますが、現実的には無理ですよね。たとえ上記の条件を揃えたとしても、その後100km圏程の土壌汚染は、約100年続きます。100km圏程の人口の移住先確保も極めて困難です。このように、被災者が被ばくしない実効性のある避難計画を立てることは不可能であるため、原発を稼働させるべきではないと考えます。子ども達の健康を守り、自然豊かな故郷を守る事が、私達大人の役割なのではないでしょうか。南海トラフ巨大地震の発生確率は、30年以内で70~80%です。

――政府にどのような対応を求めますか?

小笠原さん チェルノブイリは事故後の実害を公表し、60以上の疾患をチェルノブイリ原発事故放射能障害と認定し、被ばく者手帳で医療負担を免除するなど、被災者救済をしながら復興を進めました。この一方で、事故の規模は異なるものの、日本政府は原発事故の実害を隠し、1つの疾患も福島原発事故放射能障害と認めておらず、救済をせずに復興を進めようとしています。日本政府も、原発事故の実害を公表した上で原発のあり方を考えるべきです。実害を認めないから原発事故から10年以上経った今でも、福島の人々は分断され心に深い傷を負ったまま生活しています。日本も原発事故後、「子ども被災者支援法」を制定しましたが、「公衆被ばく線量限量」をチェルノブイリの様に国際基準である1m㏜/年に戻さず、20m㏜/年のままですので、多くの被災者が支援の対象外となっています。つまり、次に原発事故が起これば、また福島と同じように「公衆被ばく限量」を引き上げたまま救済はなく、命の尊厳は見捨てられるということです。福島支援活動のなかで、風評では無く福島原発事故の実害を伝え、より多くの方々に原発のリスクを知ってもらうことで、子ども達に原発事故のリスクを負わせない選択を考えてもらいたいと思います。

――最後に今後の取り組みについて教えてください。

小笠原さん 私は野菜支援や保養活動以外にも福島第一原発から生じるALPS処理汚染水の海洋放出など様々な活動に取り組んでいます。こうした活動の原動力は、私が子どもたちに、「日本は人の命を大切にする国だ」と言いたいためでこの思いは変わることはありません。今後も微力ながら活動を続けていきます。

(聞き手 佐々木浩)

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